「日本統治時代を肯定的に理解する」を読む
以前に台湾人の蔡焜燦さんのご本を読みました。その中で、戦前からの台湾の歴史を学びました。
今回は、戦前の朝鮮から生きてこられた朴賛雄さんの自伝と戦前の朝鮮の状況を表した「日本統治時代を肯定的に理解する」という本を読んでみます。
何故この本を選んだのか?
本を読む場合には、レストランや食堂に入るか入らないかを選ぶのと同じようなカンが働いていると思います。

これは、巻末の朴賛雄さんの弟さんである朴賛道さんの巻末の解説が面白かったからです。
8人兄弟の長兄が賛雄さんで、その弟さんです。「私が生まれてから兄が亡くなるまでの七六年間のほとんどを一緒に過ごしました。したがって長兄を一番よく知っているのは私だと思います。」と書かれています。また、「長兄と私は自由主義者、民主主義信奉者なのです。」とも言われており、自由に戦前から戦後にかけての朝鮮半島を描いてあると思いました。お兄さんの事を、並外れて正直な人でした、とも言われています。お兄さんを尊敬されており、立派なご家族なのだと感じました。
そこから、「直接的には、韓国人の行き過ぎた反日感情に対する兄の拒絶感も入っていると思います。これが、執筆動機に当たります。」とも言われています。
朴賛雄さんは日本に対しては好意を持っていました。特に日本人の正直さ、誠実、親切心、他人を尊重し、秩序正しく一致団結し、自由で民主的に生きていることです。また、「日本が韓国を侵略したことは基本的に間違ったこと」とも言っていますが、それを憎しみ過ぎるのは間違いとも言っています。
日本を憎みすぎると反対に韓国人にもその憎しみが回り回って韓国人をも傷つけるといっています。
過剰な反日感情は過剰な反共独裁国家になるか、徹底した親共国家になると言っています。
反対に、日本の長所や韓国の短所を語ることは、「反民族親日派」ではなく「真の愛国者」だと考えています。
序に代えて 朝鮮の文明開化に貢献した日本
最初の序文の初めに、「日本の植民地時代に生まれ、数え年二十歳で終戦を迎えた者として、この世を去る前にに率直な心情を書き残したい気持ちでこの短文を綴る。」と書かれています。
この本は、朝鮮人と日本人の真の友好と愛国の気持ちの吐露と思います。植民地時代の真の姿をお互いが知ることによって、植民地時代の平和な姿を通して朝鮮人と日本人がいろいろな問題も抱えながらすごしていたことを学べると思います。
『日本人は平和愛好の弱小民族である韓国を銃剣で踏みにじって植民地化し、三十六年間、虐政を施しながら土地と農産物を仮借なく収奪した。南北すべての朝鮮人は、当時の亡国の辛さを思い浮かべると、今でも身の毛のよだつのを覚える』というのが南北朝鮮人の決まり文句となっている。
しかし、事実は文明開化が進み、生活水準が向上し、人工は二倍に、貿易量は四十倍になっている。
今の若い人は教科書や小説の影響で当時の朝鮮人は皆、日本を敵国と見なし、事ある毎に命を投げ出し独立運動をした。それに対して特高が全国的に監視の目を強くし多くの愛国者が次々と逮捕されたという話があるが、それは全くウソである、と言っています。
昭和初期の京城の様子

朴賛雄さんは大正十五年に京城(ソウル)で生まれました。韓日合併(1910年)から16年になった年です。
著者が物心ついたときには京城の町には、幹線道路には電車が走り、電気、水道、電話、ラジオ等も導入されていたそうです。京城のまちは、朝鮮総督府、京城府庁、京城駅などの建物もあり、現代化し始めた大都市の様相を呈していたそうです。
町の東西を貫いて流れる清渓川を境に北は朝鮮人街があり、南は日本人街がありました。
百貨店も朝鮮系の和信、日本系の三越呉服店、丁子屋があり、小型百貨店の平田と三中井がありました。
もちろん、住民達は自由に移動は出来ました。
京城の人口は朝鮮人九四万一一0一人で日本人一六万七三四0人で計一一0万八四四一人でした。
朝鮮人と日本人は互いにけんかをすることもなくよそ者同士という感じで生活していたようです。
生活改善運動を自ら実践したお祖父様 朴勝彬
お祖父様は1880年に韓国江原道鉄原郡で両班の一人息子として生まれたそうです。19歳までには独学で漢文の勉強をし、二十で判任官試験を首席で合格した秀才でした。明治三十八年には中央大学に留学し、1907年に卒業、帰国して大韓帝国の検事に任官されました。
45歳の時に手腕を見込まれ、弁護士業を辞め、潰れかかっていた普成専門学校という学校の校長先生になりました。7年後には、学校の危機を乗り越えました。
普成専門学校を7年間勤めて退職した後は、朝鮮語文法の研究と「生活改善運動」の実践に余生を捧げました。
朴賛雄さんは、
「祖父の心境を強いて憶測するならば、『朝鮮独立などは全然可能性がない。カネもなく、チカラもなく、ただ漠然と日本統治に逆らったところで、報いるところは何もない。それより朝鮮人のいろいろな後進的な慣習や心構えを改善して教育水準を高め、日本という枠内で発言権を高め、差別をなくしてゆくのが王道である』と考えたのであろう。」と言われています。
非常に明晰な方だったんだと思います。
お父様とお母様

お父様は朴定緒さんというお名前で、1903年9月13日ソウルで生まれたそうです。小さい時から病弱だったそうです。十二歳の時に肋膜炎にかかり、近くの医者で診てもらいましたが、直らず福岡の九州帝国大学付属病院で手術を受け直ったそうです。その後も病気がちで学校の卒業も遅れたそうです。二十二歳で結婚しました。
非常に明晰な方でしたが、病弱で苦労され、大東亜戦争と朝鮮戦争でも苦労された生涯であったと思います。
明治末~昭和生まれの朝鮮人は大東亜戦争と朝鮮戦争で苦労が絶えなかったと思います。
お母様は呂允淑(ろいんじゅ)さんは1906年6月15日に京畿道黄楊州で生まれ1992年7月13日に米国で亡くなられたそうです。若いときから勉強に励む才媛だったそうです。
結婚した後は、家族で三度の避難生活を乗り越えてこられました。一度目は(大東亜戦争の避難、二度目は朝鮮戦争でソウルが共産軍に占拠されたときの避難、三度目は再び中共軍の手にソウルが落ちたときの間の避難です。朴賛雄さんは、「母はこのように生涯三度の避難生活をしながら、この時代を生きた韓国人のすべてがなめた、すべての苦しみを味わったと言えよう。食糧難もさることながら、成長した三人の息子を共産軍の志願兵に捕られまいと、百方に手を尽くした。」と言われいてます。
朝鮮戦争は朝鮮の人にとっては最も苦しい時代でしょう。
現在、朝鮮休戦の話が出ています。決して忘れてはならない歴史と思います。
朴賛雄さんの小学校時代
ここから、朴賛雄さんの戦前での朝鮮の小学校の体験を語っています。朴賛雄さんの小学校は京城師範学校付属第二小学校です。当時は、日本人と朝鮮人の子弟は分離されていて、日本人の子弟は第一小学校で学び、朝鮮人は第二小学校で学んでいました。当然、朴さんは朝鮮人なので第二小学校で学ぶことになりました。自宅から離れていたので電車通学し、楽しかったそうです。平和な戦前の京城を彷彿とさせます。
小学校時代の思い出も多岐にわたっていますが、「よくここまで細かく覚えていらっしゃるなぁ」という感想を抱きます。学芸会のことや当時の遊び、時の記念日に合わせて標語を作ったこと等事細かに覚えてられます。
これらのお話を伺っていると、大人は生活は大変だったのでしょうが、子どもにとっては幸せな生活をおくれたのではないかと想像できます。それだけ平和な生活だったと思います。
消された小学校の名簿と記録

1985年に刊行された「ソウル大学校師範大学付属国民学校九十年史」には、1895年からの校歴が載っているそうですが、肝心の学校長や教師、そして卒業名簿は1945年以前は一切載っていないそうです。
これはひどいです。
そこで、朴さんが学校に問い合わせたそうです。そうすると、「『卒業生名簿や学籍簿など見たこともない』とツッケンドンな返事だった。彼女(学籍課証明担当)は『卒業生名簿や学籍簿がなぜ必要なのか』と僕に反問するありさまだった。」と言われています。
これはひどいです。自分の小学校時代の思い出をすべて削除されたようだと思います。
これでは、小学校時代の友人や恩師に連絡をとったり、同窓会を開いたり出来ません。
その後、朴さんが小学校時代の恩師に出したお手紙の一部が掲載されていて、非常に恩師想いの立派な生徒であったことを伺わせます。
恩師の朝岡先生は、「色々と苦しい事の多かった四十年ですが、今こうして貴君の手紙を前にして、君に手紙を書いていると、生きていて本当に良かったと、しみじみ思います。」と書かれています。
素晴らしい朴さんの心が読み取れます。心通う手紙を読むと本当に心が暖まります。
中学校の思い出
昭和十四年三月に京城師範学校付属第二小学校を卒業し、京城第一公立中学校(旧制五年生)に入学しました。中学校の先生には多士済々で、抜群に英語が出来た蔡先生、陽明学の権威である中江藤樹の子孫の中江先生、誠心誠意の人である岩村校長先生です。
岩村校長先生は、京城第一公立中学校の卒業生が良く勉強して、いい上級学校に大勢入れるように一生懸命努力されたそうです。
中学校に入ると、剣道に励み卒業前には初段の腕前になっていました。
また、『少年倶楽部』の佐藤紅緑、サトウハチロー、山中峯太郎、佐々木邦、江戸川乱歩等の作品に夢中になったそうです。当時発刊されていた少年講談シリーズを多く読まれ、世界文学全集を読まれたそうです。
これらの読み物は著者の教養の肥やしになったのでしょう。素晴らしい少年時代を垣間見ることがてきます。
大東亜戦争時代の勤労動員
日本も戦局が過酷になるにつれ中学校生の勤労動員が実施され、平沢飛行場の整備にかり出されます。
その当時は朝鮮だけではなく、日本全国の中学や高等学校で勤労動員が行われました。平沢飛行場にいき作業を行います。「朝飯をすませると、全員整列して作業場に出かけるのであるが、そこら一帯は粘土質の赤土である。作業場までの往復は素足であった。雨に濡れた赤土を素足で歩くときは、足指のあいだから赤土がニョキニョキと盛り上がってくる。工事場での作業は、飛行場全地域の地表の山の部分を削って平面化することである。」と書かれています。過酷な作業でした。
お風呂は一週間に一度入れたそうです。しかし風呂と言ってもお湯は熱かったそうですが50人ほど一気に入り身動きもままならなかったそうです。若かったからこういう作業も乗り越えていけたのでしょう。
当然、過酷な労働なので、大きな暴動はなかったと思いますが、反抗的な態度をとったりしたことがあったようです。
金浦空港の整地作業
これまでの動員作業は日帰りでしたが、金浦空港の整地作業に入り、五十二日間ぶっ通しでの作業になったそうです。中学五年生全員が京城から金浦まで零下十度~二十度の土地を行軍するのですから厳しいですね。
その中での作業なので本当に大変だったと思います。特に、小牧という教師に、ある生徒がピンタを食らったそうです。二十数名が抗議に行きましたが、同僚の広中先生と言う先生が、「待て広中が出る」と言ってその場を沈めたそうです。
朝鮮人中学生といっても若く、「なんでこんなつらい作業をしながら、殴られなあかんのか?」との当然の疑問も出てくると思います。
新聞とかは、「不滅の大精神を讃ふ」(朝日新聞)とか「七生報国は皇国武人の素懐である。」(朝日新聞)とかの言葉で紙面をかざり、戦争を賛美し死ぬ事を礼賛していました。
しかし、若い人々は最前線に行き、勤労動員にかり出されました。なんともやり切れません。
戦前までのご自分の経験や回想を述べた後に、戦前の日本の朝鮮植民地時代の事の意見を述べています。最終章として「Ⅱ 日帝時代とは何だったのか」との章を設けて戦前の植民地時代の朝鮮の感想を書いています。
創氏改名はどうだったのか?
創氏改名とは、朝鮮人の名前と日本人の名前では明らかに民族の違いが明確に分かるのですが、
当時日本の植民地であったために、朝鮮式の名前を本人の意思で日本式の名前に変更できるようにしたそうです。
戸籍上では元の姓はちゃんと残っていました。また、当然創氏改名をしたくなければ、しなくても問題ありません。
朝鮮総督の南次郎さんが朝鮮人と日本人の間に差別があったので、その差別を解消するために名前を日本式に自由に変更できるようにとの発案したものです。
著者は朝鮮文化を抹殺するために創氏改名をした訳ではないと理解していました。
創氏改名は、ほとんどの朝鮮人自身が望んだ訳ではないが、特に反対もなかったそうです。
その後、「植民地朝鮮の日本人」(高崎宗司」という本が戦前の朝鮮では、数多くの日本人が朝鮮で傍若無人な行為を働いていたと書いていたことを批判されています。創氏改名も強制されたものではないですし、数多くの日本人が傍若無人の行為を働いていたことはないと言われています。
傍若無人な振る舞いが全くなかったわけではないと思います。その数が多ければ朝鮮人の反発はかなりのものがあったと思います。
すごい倍率の志願兵
昭和十三年三月に四百名の朝鮮人志願兵募集になんと三千五百名 8.5倍(競争率)
昭和十五年に朝鮮人志願兵募集が八万四千四百四十三名
昭和十六年に朝鮮人志願兵募集が十四万四千七百三十名
とすごい志願兵募集がありました。
それだけ愛国心があったのかもしれませんが、隠れた理由も言われています。というのは、朝鮮人の五割が農民で、その殆どがその日暮らしの小作農であったそうです。
そのような農家の息子が日本軍に入隊すれば、彼の受け取る少額の俸給でも実家の生活を潤うことになるという理由も働いて応募が集中したとのことです。
色々な理由があったので、一概に愛国心が旺盛であったと言うことだけでこの応募の多さのを説明するのは間違いと言うことだと思います。
十四人の尊い犠牲者、朝鮮人特攻隊員
既に知られていることですが、神風特攻隊のメンバーの中で朝鮮人の方がいらっしゃいました。著者は、その尊い一四名の人々の名前を書かれています。著者は「尊い犠牲的行為である。」と言われています。
私は、これらの尊い先輩達の犠牲に関して著者と同じく一四名の方々に関して尊敬の念を禁じることができません。
ありがとうございました。
最後に著者はカナダでの韓国人の集の中で韓国出身の婦人が日本の軍歌を歌われたのを聴いた後の感想として、
「僕は思う。今韓国では民族主義が真っ盛りで、反日・反米主義がまかり通っているが、ホンモノの日帝時代、特にその後半期には反日主義は見かけられなかったのだ。
日帝時代に差別され虐められていたのだったら、かくも愉快に(?)、堂々と、日本の軍歌が彼女の口をついて出てこなかったであろう。」
と書かれています。