「戦前の日本」を読む

この本は武田知弘さんというフリーライターの方が書いた本です。この方は、世の中の「裏」に関する著述をされているそうです。「『戦前の日本』と聞いて、どのようなイメージを思い浮かべるだろうか?」と疑問を投げかけられています。色々な見方があるだろうが、「しかし、当時の人々がどのような暮らしを送っていたのかというと、その具体的な情報は驚くほど少ない。果たして、本当に暗黒の時代だったのか。」
「本書を読めばきっと、今からわずか数十年前の日本はこんな社会だったのか、と驚嘆すれることだろう。」と書かれています。

明るいか暗いかは、戦前を生きた人それぞれの境遇によっても変わるでしょうが、違った面も学んで現在の課題も考えてもらえればと思います。

まず、大きな章立てとしては、
「第一章 不思議の国『戦前の日本』」 今から見るとそんなことがあったのか?と思われる事柄をとりあげています。
「第二章 本当は凄い!戦前の日本」 戦前は遅れていたと思いきや、違いました。
「第三章 古くて新しい戦前の暮らし」 今でも続いている暮らしにびっくりします。
「第四章 熱く迷走する、戦前の日本」 結構、ドタバタしています。私は少し異論を感じました。
となっています。
各章の中から面白そうな話をピックアップして書いていきたいと思います。

夜の華カフェ

「第一章 本当は凄い!戦前の日本」から戦前に流行したカフェについて書きます。
カフェと聞くと喫茶店を思い出しますが、戦前は喫茶店というより、スナックや風俗店に近かったそうです。昭和初期の大阪ではカフェは妙な方向に発展します。カフェとエロが融合するそうです。さすが大阪ですね。確か、大阪でノーパン喫茶の発祥地も大阪であったように思います。
大阪の北新地に、女給とキスができる接吻カフェ「ベニア」が登場したそうです。
たちまち評判になり、次々と同じような店が誕生したそうです。
この風俗カフェはその後、関東にも進出し、関東大震災から復興の途中にあっという間に東京を席巻したそうです。このエロのサービスも色々な物が生まれました。女給の体を触るサービスだったそうです。
これらのエロサービスは昭和五年の不況の頃に一番発達しました。
不況なので、エロサービスが激化しました。売れないので、普段しないサービスまで手を出したのですね。
たくましいですね。

 

 


女給はキャバクラ嬢に近いと思います。

女給は店からは給料はでません。客のチップだけが収入源でした。

カフェの女給は、文学小説にも色々と出てきます。永井荷風の「つゆのあとさき」や谷崎潤一郎の「痴人の愛」などの多くの文芸作品に出てきます。
太宰治の恋人の田部シメ子さんも女給さんでした。

エログロナンセンス

エログロナンセンスと言う言葉がありますが、昭和初期に生まれた言葉です。エロはエロティック、グロはグロテスク、ナンセンスはそのままです。この3つの言葉をくっつけた言葉です。昭和初期にはこれらの言葉が表現するものが流行しました。戦前は、道徳と戦争礼賛で堅く暗い時代と思われますが、色々な考えが混じり合っていたようです。
当時は、売春も公認でしたし、繁華街にはカフェもありました。卑猥な物、珍奇な物、残酷な物に興味を持つのは人の常です。
しかし、エログロナンセンスは全て許されるわけではありませんでした。「日本では、『風俗ヲ害スル冊子図画其他猥雑ノ物品』を公然と陳列し、販売することは禁止されていた。」と言われています。
今と同じく禁止されている物と許されている物の基準が違ったということと思います。
「現代社会においても卑猥図画の取り扱いは注意を要するが、当時と比べるとその判断基準に雲泥の差がある。戦前では女性の裸はもちろんのこと、男女の営みを連想させる記述にも当局のチェックが入り、発売禁止に追い込まれた。つまり、実践は構わないが、見るのはいけない。それが戦前の風潮だったのだ。」と書かれています。

人間は禁止されるとよけいにやりたくなるのでしょう。
日本におけるポルノの写真は歴史が古いそうです。日露戦争では、兵士の間でポルノ写真がはやったそうです。
写真館では、裸体の写真撮影も行われたり、芸妓や娼妓が裸になった写真撮影が行われたりしたそうです。

さらに、昭和二年には、山形の県立高等女学校の生徒750人中の200人がポルノ写真のモデルになっていたそうです。
凄い話です。当時の高等女学校の生徒は進んでいる!

猥褻な雑誌も出てました。

日本の喜劇王エノケンとカジノ・フォーリー
このエログロナンセンスの時代にはシンボルがいました。昭和の喜劇王榎本健一とカジノ・フォーリーです。
エノケンこと榎本健一は有名なんですが、カジノ・フォーリーは知られていないと思います。
カジノ・フォーリーは昭和四年七月に浅草水族館余興演芸場で活動を始めました。
特にラインダンスを中心としたレヴューで、露出度の高い踊り子の衣装と、卑猥さを協調して多くのダンスで多くの観客を集めたそうです。
「カジノ・フォーリーでは、コメディーとレヴューを組み合わせた出し物を演じており、客はエロとナンセンスの両方を愉しむことができた。」と説明されており、興味をそそります。

今でも、浅草演芸場は人気です。その頃からの芸の伝統が息づいているのでしょう。
渥美清、コント55号、ビートたけしといったスターが続々と出てきています。

これらの話を聞くと、日本らしい所が見えてきます。庶民はたくましく、色々な楽しみに興味津々なんです。
羽目を外しています。


「第二章 本当は凄い!戦前の日本」という章がありますが、西欧に遅れていた日本という印象があります。
戦前までは、日本は遅れていて、戦後急速に発展したというイメージがあります。しかし、日本はズーと昔から進んでいるところがありました。

幻の超特急「弾丸列車計画」

昭和三十九年に東京~大阪間に東海道新幹線が開通しました。戦後十九年の短い間に、新幹線があっという間に開通しましたがその原因には戦前からの弾丸列車の計画があったそうです。

新幹線は戦後に企画されたのでなく、計画は戦前に作られゴーサインまで出ていました。
東海道本線と山陽本線は日本の大動脈ですが、日本~満州の旅客量は、昭和六年には三十万人で、昭和十二年には、五十二万人、昭和十四年には九十万人とウナギ登りでした。
そこで、昭和十三年に、東海道と山陽本線とは別に広軌道の鉄道を走らせる「弾丸列車計画」がうちだされました。

 

 

建設計画は、時速200キロ、軌間1435ミリ、車両の長さ25メートル、ホームの長さは500メートル、一日に片道42本の旅客列車を走らせる予定でした。鉄道省は電車で走らせようと考えていましたが、陸軍が変電所が爆撃されると一発で動かなくなるので、機関車で動く事になりました。
さらに、昭和十七年に関門海峡において海底鉄道トンネルを作っています。下関と釜山の間にトンネルを作る計画も検討され、「中央アジア横断鉄道構想」をぶち上げました。これは、朝鮮から北京を経て、アフガニスタンのカブール、イランのテヘラン、イランのバクダッドまで延べ7474キロに及ぶ鉄道を作る計画でした。
戦艦大和、零戦、ヤギアンテナ等戦前の日本で開発された技術には、凄い物がありました。
日本の技術力の優れている所と、他国の優れている所を冷静に判断していみたいと思います。

2018年11月13日