幣原喜重郎の「外交五十年」を読んで
幣原喜重郎と言っても知る人は少ないかもしれませんが、戦前と戦後に渡り政治に大きな影響を与えた政治家です。明治五年に大阪門真市の豪農の家で生まれました。東京帝国大学を卒業して、エリート官僚として外交に携わります。今までの陸奧宗光や桂寿太郎のような国士タイプの外交官とはことなります。
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1920年代に外交官として外務省をリードして幣原外交と呼ばれていました。
幣原外交の特徴は、当時の強国であった英米とは協調して、決して反旗を翻さないのを一つの特徴としています。
しかし、中国大陸での中国人から日本人への殺害や暴動等に対する軟弱外交がシナ事変の泥沼化を招いたと言われています。
1927年に南京で蒋介石が率いる武装勢力が日本人を含む多くの外国人滞在者を襲撃するという事件が発生しますが、干渉しないという外交方針で、日本人を救出するという目的で軍隊を派遣することをおこないませんでした。
中国人で生活している日本人からすれば非常に不安だったと思います。
国際情勢が緊迫している現在にも通ずる時代の中でどのような生きかたをしたか「外交五十年」から学んでいきたいと思います。

大正時代後半から昭和初期まで外交の主流をなしてきた幣原喜重郎の外交の特徴と思うことは、
1.日英同盟を実質廃棄する4カ国同盟に変更してしまった。この日英同盟の破棄は、日本の孤立を招き大東亜戦争への方向に進めることになった。幣原は、2国間の同盟よりも複数の国家間の善意と協調の協約の方が堅固な平和を築けると考えていました。しかし、この協約は日本の安全に全く役に立ちませんでした。日英同盟が昭和15年頃まで続いていれば日米で戦争まで発展することはなかったと思います。
2.一貫して支那の政府に対しては融和的であった。その為に中国大陸で起こるテロに対して十分な邦人保護が十分でなかったと思います。さらに日本人に対して舐められることになり支那事変の泥沼に入り込む原因の一つを作ることになったと思います。
後に幣原は、「軟弱外交で思い出したが、この昭和二年三月の南京事件につづいて四月の漢江事件が起こったときイギリス大使から、事態が険悪だからといって、日英共同出兵を提案して来た。日本には緊急の場合には緊急閣議を開いて、去就を決するからといって、差当りこのイギリスの出兵の議に応じなかった。
あとでそれが議会の問題になった。イギリスの提案は千載一の一好機であったのに、その機を逃して共同出兵をしなかったのは、何故か。外務大臣は優柔不断で、在外居留民利益保護の任務を怠るものだ、といって、攻撃が私に集中した。私は当時の情において、出兵の必要を認めなかったからだと一言するにとどめた。」と言っています。本人にしてみればいろいろと言いたいことはあったとは思いますが。。。結果的には、共同で出兵し居留民の保護すべきだったのでしょう。
幣原外交については、非常に難しい話もあるので、突っ込んだ議論は後ほどに行いたいと思います。
ここでは、幣原喜重郎の経験した体験を書き連ねてみたいと思います。
浜口首相の襲撃の現場に遭遇したこと
今から88年ほど前の昭和5年、東京駅で日本国の首相である浜口雄幸が狙撃され重傷を負うという事件が起こりました。岡山での陸軍の演習に行くために東京駅に首相がいましたが、佐郷屋留雄という右翼の活動家に至近距離から銃撃されました。当時は、政府や著名人の襲撃は頻繁に行われており、政治家は命がけの仕事であったと思います。
事件の背景としては、第一次世界大戦後の長引く不景気に有効な景気対策を行わなかったことと、ロンドン軍縮会議での海軍の軍縮を認めてしまったことにあったと思います。とくに金本位制に戻ってしまう金解禁は失業と倒産を加速させることになりました。
経済政策で失敗した事が大きな原因
中学校の時に勉強して少しは頭の隅に残っていると思いますが、不況の時は金融政策と財政政策を国が行います。
浜口内閣の時の金融政策は、紙幣をいつでも金貨と交換できる金本位制に戻しました。これは、発行紙幣の数が金貨の数に必ず制限されることになります。(金の埋蔵量は限られています)
不況のときには、企業や銀行が潰れるため、お金が足りなくなります。しかし、供給される貨幣の量が少ないために不況から脱出することができないことになります。
丁度、まん悪く昭和4年に世界恐慌が勃発します。銀行や企業が資金不足の為、バタバタと倒産していきます。普通であれば、企業や銀行に資金を投入して救済します。しかし、浜口内閣はそれと逆の政策をとったということです。
ついでですが、平成に入っての失われた20年の不況も日本銀行の金融政策の失敗に大きな原因があります。
4代前~1代前の日銀総裁である速水さん、福井さん、白川さんは金融緩和を全くしてきませんでした。その結果、失われた20年と言われる時代が続き、第二次安倍内閣の金融緩和で日本経済が息を吹き返したと思います。
速水さんなんかは「デフレは良い」とまで言ってました。デフレはたとえ緩やかでも非常に有害です。
徐々に物価が下がってくるので、みんなお金を貯め込みます。売り上げも徐々に下がってくるのでリストラも出てきます。
さて、世界恐慌の頃とリーマンショックの頃は似ている所が多々あります。冷戦後おおよそ10年でリーマンショックが発生しました。第一次世界大戦終戦後、おおよそ10年で世界恐慌が発生しました。
リーマンショック発生時には、米国の中央銀行であるFRBの議長であったバーナンキは適切な金融緩和を行い極端な不況に陥ることを回避しました。日本は、時の日銀総裁であった白川総裁の元、根本的な金融緩和が行わず、極端な円高に陥りました。白川総裁は、包括的金融緩和という名前で金融緩和をしているように見せかけましたが、実際に購入したのは残存期間1~2年の国債や資産でした。残存期間1~2年のほとんど金に交換される資産を買ってもあまり効果はありません。このやる気の全くない金融緩和にたいして一部の国会議員や経済評論家が怒り日銀法改正の運動がおこりました。
民主党の時代に不況の風が吹いたのは今でも記憶に新しいと思います。
世界恐慌の場合は、浜口内閣では金融政策では、金本位制に戻るという逆金融緩和を行いました。その後、昭和6年に高橋是清が大蔵大臣に就任して金融緩和を行い不況から脱しました。
米国では、フーバー大統領は財政政策は行いましたが金融政策は行いませんでした。その後のルーズベルトは金融政策を行い大恐慌から脱しました。
1929年の世界恐慌の権威であるバーナンキによると、世界恐慌からの早々に脱出した国は概して金本位制度から早々に離脱した国だそうです。
つまり、金融緩和の足かせになる金本位制度からの離脱が重要なキーポイントになったと思います。
世界恐慌後でもリーマンショック後でも同じようなテロが行われ、無法者国家の出現が共通
そして、恐慌やデフレから脱出の課程で必ず出てくるのが無法者国家出現とテロ発生です。
1929年の世界恐慌の時には、ナチスドイツとソ連が力を延ばしてきました。ドイツではナチスによるテロが猛威をふるいました。ソ連では、粛正の嵐が国内に吹き荒れました。日本では、浜口首相の銃撃、5.15事件、2.26事件等、支那では通州事件、広安門事件等が発生しました。
リーマンショック以降では、ISの発生やヨーロッパ、米国でのテロの発生があります。日本でも靖国神社ての爆破事件がありました。これからオリンピックにかけて、いつテロが発生してもおかしくありません。戦前のような政治家に対する襲撃は、国民の理解を得ることができないので、マスコミと政治屋を中心に倒閣運動が行われています。
一方、ならず者国家としては、北朝鮮、中華人民共和国、ロシアが台頭しています。
幣原がたまたま、ロシア大使の見送りで東京駅に行っていた時に浜口の襲撃がおこなわれた
幣原は広田弘毅がロシア大使として赴任するので、東京駅に見送りに行ってました。
その時に、駅長から総理が来られているので貴賓室に来てくださいと言われましたが総理とは関係ない用事で来ているので貴賓室には行かないと断っています。
突然、パチパチという音がして「それ、やられた!」と近くの警官が怒鳴ったそうです。
幣原は音のした方向を見ると、大変な人だかりで、誰やと見ると浜口首相が担がれていったそうです。
幣原が広田と別れてようやく浜口首相の所にかけつけると浜口首相から『男子の本懐だ!』と言っていたそうです。そこから幣原の記述を読むと、「『昨日の総予算案の閣議も片付いたので、いい時期だった』などいろいろ話しかける。私は、「物をいうとどんどん血が出るから、物をいっちゃいかん」と止めたが、私が居るとはなしかけるので、ソッと駅長室へ行った。
何よりも手当が急要だ。築地の林病院と、東大と慶大の病院へ電話をかけ、三人の外科の大家が駆けつけた。・・・」と書いてあります。
東大の塩田博士が、『私が連れて行きます』と言って東大病院へ連れて行ったそうです。真鍋博士が自動車に同乗したそうですが、本郷四丁目の十字路あたりから脈がずっと弱くなり、生憎赤信号で自動車が進ます気が気じゃ無かったそうです。
テロの現場が生々しいです。
浜口首相はその場は命を長らえますが、次の年(昭和6年)8月に亡くなります。幣原は、浜口首相とは、大阪中学校からの同級生で、ショックだったと思います。
満州事変の原因について
幣原は満州事変について感想を書いています。満州事変は昭和6年に関東軍がおこした事件です。柳条湖近くの満鉄という鉄道で爆破事件が勃発しました。関東軍は当初、事件の犯人は中華民国の手先と言っていましたが実は自作自演でした。当時満州には日本人(朝鮮半島出身者も日本人として大量に満州に流入していました。)と支那人との間で多くのトラブルがあったそうです。さらに、支那が国民党政府、中国共産党政府、軍閥等が互いに争っている内乱状態で非常に治安が悪かったそうです。満州鉄道でも多々線路に置き石がおかれたりしていました。
この謀略を皮切りに関東軍は、熱河省を除く満州を占領しました。
一枚岩でなかった陸軍
陸軍中央は、当初関東軍の動きに反対であった。陸軍中央は、参謀本部建川部長を満州での軍事行動を止めさせるために派遣したが、建川も同じむじなだったので全く意味がなかったそうです。
そのような中で幣原は、「然らば、この大きな戦禍の発端たる満州事変はどうして起こったのか。その原因はどこにあるか。今から遡って考えると、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴う不平不満が、直接の原因であったと私は思う。」と言っています。
その後、幣原は、緊縮財政によって世間の空気が暗くなってしまったことを話しています。
「これに続く浜口内閣の大蔵大臣井上準之助君があらゆる苦情を排して、財政緊縮を断行した。文官も、人数を減らす。月給も減らすことにした。鉄道大臣の仙石貢君の如きは、『誰かこんなことをするのだ。月給を下げて、人気の悪化しないためしがあるか。』と怒鳴ったりした。」
世界恐慌の時に、金融緩和をせずに真逆の金本位制への復帰をおこない、民間でお金が足りない状況を作りました。さらに、政府がお金をばらまけばまだしも、反対に緊縮財政をおこない民間へのお金の環流をストップしてしまうという不況を深刻化する政策を打ってしまったことを話しています。
また、支那での日本人に対する悔日政策があったそうです。
「この悔日政策は、単に中国内部だけでなく、満州方面でも同様であって、日本人の正当な活動が、地方官憲に妨げられた事も少なくなかった。その著しい例は、中村震太郎という太尉が中国官憲から旅券の査証まで受けて北満地方に旅行したが、ようとして消息が不明になった。それが中国人に惨殺されたということで、陸軍の軍人を非常に刺激した。」
日本は、海外での領土の保全を確保するためにその領域を拡大していったのでした。陸軍の兵力が少ないなかで、反対に周囲に安定した国家を作り少ない兵力で保全が保てるシステムを作ろうとしたのか?と考えます。
満州で日本人の借地が支那の官憲によって差し押さえされていた
「それから万宝山事件というのもあった。それは満州のその地方(長春の近在)にいた朝鮮人の一集団が、借地して水田経営を始めようとしたのを、中国地方官憲に差し押さえられた事件で、日本から抗議したが、なかなかラチがあかない。こんなわけで、日本人の活動が満州方面ではすべて排斥されるという感じを与えられていた。」と書いています。
当時、朝鮮人は日本人でした。日本政府はいつものように抗議はしますが、相手はいつも馬鹿にして聞き入れません。
今の政府と同じです。現在支那で日本人が8名?スパイ容疑?で拘束されていますが政府は遺憾の意を表明するだけでその当時と変わりません。
ミサイルを撃ち込まれても同じです。自国の国民を守る気持ちが感じられない文です。国会では、不毛な議論が続けられています。当時も今も一緒です。
日本を救った鈴木貫太郎
鈴木貫太郎は、終戦時の総理大臣です。米国との戦争でいよい戦局もだんだん悪化し、終戦交渉にあたる人材として昭和天皇の期待を受けて総理大臣に着任しました。
その鈴木貫太郎が昭和11年の2.26事件で襲撃に遭いました。その時の様子を幣原は書いています。
当日に7~8人の兵隊と1人の指揮官が家に押しかけ鈴木貫太郎が『君らは何だ』と言ったら、『済みませんけれども、閣下の生命を頂戴に参りました』と言ったそうです。
鈴木は、『よしっ、それなら少し待て』と言って、日本刀を探しにいったが見当たらない。
仕様がないので、戻ってきて『よしっ』と素手で出てきて、『君らの見る通り、オレは何も手に持って居らん。やるならやれ!』と言ったそうです。
すごいですね!死ぬことを怖がっていません!何というすごい日本人でしょうか。
普通であれば、驚愕のあまり、ワナワナ震えて、ひざまずいて命乞いするでしょう。
無抵抗の老人に対して、幣原の記述では、
「『射て』と号令した。パンパンと銃声が弾丸が頭にあたったので、鈴木はそこへバッタリ倒れた。
そのとき、偉いのは奥さんであった。流石に武人の妻で、少し離れたうしろの方にキチンと座って、ジッと良人の最後を見届けていたという。射撃が終わると、一人の兵隊が倒れた鈴木の側へ寄って、脈を見ていたが、『脈があります、止めを刺しますか』と隊長にいった。隊長は、『それには及ばん』といって、倒れた鈴木に対して、また最敬礼をさせた。」と書かれています。鈴木は、三発を左脚付け根、左胸、左頭部に被弾し血の海だったそうです。
奥さんがセイキ術とかいうものを心得て血を止めたそうです。その後、医者が手術をして九死に一生を得たそうです。
その後、再起して日本を救いました。感謝です。
今の政治化やリーダーでこれだけ腹の据わった人はいるでしょうか?
我々も含めて死生観をもう一度考え直す必要があるのではあいかと思います。
後、鈴木貫太郎の奥様が「鈴木貫太郎のとどめを刺す」ことを制止したとの話も聞いています。この時の鈴木貫太郎殺害の首謀者は、安藤輝三という陸軍大尉で、その前からちょくちょく鈴木の家に訪問しており鈴木に感銘を受けていたそうです。
昭和4年の世界恐慌と昭和恐慌で日本は、不況の真っ只中に突入しました。特に東北では、女子が貧乏のあまり身売りをしたりしました。軍隊では、特に東北出身者の新兵がガリガリに痩せていたために、何とかしなければならないという決起の動きがでてきたそうです。陸軍の中に社会主義者が蔓延することになり、このようなクーデターやテロが勃発することになりました。経済が不況になると必ずポピュリズムが発生し、英雄が踊り出てき、テロやクーデターが発生するということでしょうか。
最近のマスコミが煽った民〇党ブームを思い出します。確かリーマンショック後でした。あのスタンフォード大学出身でエリート高学歴の方に人気が集中しました。
引っ越しして首班指名を逃れようとしていた
戦災で多くの日本人が大変な目に遭っていましたが、幣原も同じく大変でした。
次のように書いています。
「引越間際の思召。多くの人と同じように、私も戦災に遭った一人で、前の千駄ヶ谷の家も家財も自動車もみな焼けてしまった。」と言ってます。
そんな中で、地方に隠居して平穏に生活しようと考えていたそうです。その引越の作業を為ている時に、陛下から大命が下されたそうです。隠居しようと考えていた中での首班指名なので大変だったと思います。戦後の混沌たる状況で多くの仕事が首相の前にあったと思います。その中で最重要の仕事と考えたのが新憲法の起草であったそうです。
新憲法起草の時の幣原首相の考え
彼は、「その憲法の主眼は、世界に例のない戦争放棄、軍備全廃ということで、日本を再建するにはどうしてもこれで行かなければならんという堅い決心であった。」と書いています。
さらに、「武器を持たない国民でも、それが一団となって精神的に結束すれば、軍隊よりも強いのである。例えば現在マッカーサー元帥の占領軍が占領政策を行っている。日本の国民がそれに協力しようと努めているから、政治、経済、その他すべてが円滑に取り行われているのである。しかしもし国民すべてが彼らと協力しないという気持ちになったら、果たしてどうなるか。占領軍としては、不協力者を捕らえて、占領政策違反として、これを殺すことが出来る。しかし八千万人という人間を全部殺すことは、何としたって出来ない。数が物を言う。事実上不可能である。だから国民各自が、一つの信念、自分は正しいという気持ちで進ならば、徒手空拳でも恐れることはないのだ。」
と言って、「僅かばかりの兵隊を持つよりも、むしろ軍備を全廃すべきだという不動の信念に、私は達したのである。」との結論を述べています。
この意見は、「平和憲法」が出来たときの首相の考えをストレートに述べた一文と思います。