東日本大震災を契機に日本国籍を取ったアメリカ人
本日3月11日は忘れもしない東日本大震災があった日です。私と家内は、昼三時過ぎに車のディーラーさんの所で話をしておりました。ふと後ろにあるテレビを見ると映画のような信じられない光景が映りました。この世の終わりのような光景です。その後、政府の対応のまずさもあり、多くの人がお亡くなりになり、人々が東北から避難しました。
ある人は親戚や友達を頼りに東京や大阪に避難し、外国の方は祖国に帰りました。
深い悲しみが日本中を襲いました。
しかし、賢明な被災地の方々は冷静に怒りや悲しみをこらえ対応されました。
日本全国、海外から支援の手が差し伸べられました。在留米軍による「友達作戦」Operation Tomodachiも実施されました。これは災害救助、救援、復興が目的でした。
24000人の将兵、190機の航空機、24隻の艦艇が参加しました。兵士たちは強制されて集まったのではなく、志願兵として集まったそうです。しかも10分で枠が埋まってしまったそうです。
そんな中で、「絆」という言葉が自然と日本全国に起こってきました。
日本が二度目の震災の危機と収束しそうにない福島原発事故の恐怖におののいている時に、震災被災地の人々ををジート見ている一人のアメリカ人の学者がいました。その方が有名な日本文学研究家のドナルドキーンさんです。
心をゆさぶる日本兵の日記
ドナルドキーンさんは、太平洋戦争時に日本語が堪能であったために亡くなられた日本兵から日記や遺書等押収しそこから軍事情報を集める仕事をされていました。日本兵はほとんどが日記を書いていたそうです。日記を読んでも軍事情報はなかったそうですが、そこから日本人の心を見たそうです。人は死に直面して自分の本当の気持ちが出てきます。そこに引き込まれていきます。
当時、日本人に対して2つの矛盾した印象を持っていたそうです。一つは、中国を侵略する悪の帝国としての日本。もう一つは桜の美しさに象徴される雅を愛する国・日本。
この矛盾する印象を持ちながら日本に対する興味が深まっていきました。
アメリカ兵だったらほとんど、早く戦から帰って恋人とデートしたいとか家族と一緒にくらしたいと思ってるだけだが、多くの日本兵が日記を書き和歌や俳句等の詩を書いているのに驚いたそうです。
ドナルドキーンさんは、「これらの日記は時に耐えられないほど感動的で、一兵士の最後の日々の苦悩が記録されていた……私が本当に知り合った最初の日本人はこれらの日記の筆者たちだった」と言われています。
私の眼にいつしか涙が湧いていた
ドナルドキーンさんは、戦後になっても日本に対する不思議な謎は深まるばかりだったそうです。そして疑問を解く鍵として読んでいったのは戦中・戦後の作家の日記だそうです。特に高見順の日記には共感から感動すら感じたそうです。「私の眼にいつしか涙が湧いていた。いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った…」と言われています。

2012年震災の年、ドナルドキーン教授(89歳)は日本に骨を埋めることを決意されました
震災の時にドナルドキーンさんはテレビを通して日本人を見ておられたそうです。日本人の悲しみや恐れに耐え、冷静に行動する日本人に深く感動されたそうです。その年に日本国籍を取得しました。
「こういう人達と一緒にいたい」という気持ちだそうです。
日本人としては恐縮の極みです。ドナルドキーン教授は日本文学に関するご本は英語日本語併せて40冊以上になるそうです。私もドナルドキーン教授には足下にも及びませんが、祖先が残してくれた貴重な文学歴史を勉強していきたいと思います。
現在96歳になり、ますますお元気で長生きしてください。